マイベストエピソード企画

6年ぶりくらいに“本格的な記事”の更新になります。
物理的領域の因果的閉包性さん >> マイベストエピソード企画への参加記事です。

趣旨

本企画の趣旨・規定と、主催された方の開催意図は以下の通りです。

マイベストエピソード企画はじめましたより。

◆ マイベストエピソードとは?

「作品としてはベストに選ばないけど好きな話数」をコンセプトに、アニメ作品の好きな話数を選出し紹介する企画です。
※ コンセプトは強制ではありませんので気楽に考えてください

◆ マイベストエピソードのルール

  • 劇場版を除くすべてのアニメ作品の中から選出(配信系・OVA・18禁など)
  • 選ぶ話数は5〜10個(最低5個、上限10個)
  • 1作品につき1話だけ
  • 順位はつけない
  • 自身のブログで更新OK(あとでこのブログにコピペさせていただきます)
  • 画像の有無は問わない
  • 締め切りは8月末まで

マイベストエピソードの、感想とこれから。より。

そういった面でこの企画は、参加者の思い入れのある話数を選んでもらって紹介、または主張をする場所なので、気楽です。
「こんな作品知らなかった」「そういえば気になってたので見てみたかった」など、記事を読むと発見や驚きがあると思います。
私の場合、「この作品でこの話数を選ぶのか、もう一度見てみようかな。」という気持ちになって魅力を再発見というパターン。
これがすごく楽しいですね。だから「この話数のここが好きで選んだ」「こういう思い入れがあるからどうしても入れたかった」など
ここを注目してほしいってポイントが書かれているとワクワクしますね。かと言ってガチガチの文章になってしまうと個性がない。

選定コンセプト

本記事作成時点(2016年8月)で、既に薦めてみたい作品のn選を公開していましたので、ここに掲載した作品をベースにしつつ、多少“自分の趣味”を加味して選んでいくことになります。
「1話」という単位で挙げるという規定になっていますので、『魔法のスター マジカルエミ』完結三部作のような連作としての色が濃い作品は除外し(途中の1本を選ぶことはしない)、「1話」としての善し悪しに拘ってみました。

マイベストエピソード9選

魔法の天使 クリィミーマミ(第46話) 私のすてきな ピアニスト

年に一度くらいのペースで、繰り返し見ている作品。

もともと、ファンの間では非常に評価の高い回であり、この企画で取り上げるには今さらな感もありますが、それでも語りたくなる魅力が詰まっています。
その魅力として語り尽くされている部分は、私よりも遥かにこの作品への造詣が深い小黒祐一郎氏の評論ふーみん氏の感想を参照していただくとして、その出がらしとして、私の個人的な着眼点を少し付記したいと思います。

行きがかり上でマミとしてスカウトされた優にとって、スターになる(スターである)ことそれ自体は、夢や憧れではありません。そのことは作中でもさんざん明言されていますし、魔法を返してマミとしての生活を終えることになるラストエピソードに至っても、ファイナル・ステージに臨むにあたっては、「優自身の思い入れ」というよりは「応援してくれた人たちのためにも、きちんと終わらせたい」という動機の方が全面に出ているくらいです。
その優が、「ずっとマミのままでいられればいいのに」というセリフを口にする衝撃が、この話の肝でしょうか。蓋がなくて猫もいなければ大丈夫という幼い発想から、そのすぐ後に自分が「残酷なことをした」と気付く……。たった1カットの中で、誰かのためを思って“少女が子供から大人へと変化する瞬間”が描かれています。

そして、「もう誰にも嘘はつきたくない」という感情を織り込み、ピアノ伴奏でこの回のために録り下ろされた「LOVEさりげなく」に聞き惚れる数分間は、永遠にこの時間が続きそうな錯覚に陥ります。
近年のアイドルアニメで定番となった、動画枚数やCGを使ってグリグリ動かす“ライブ”とは正反対な作りですが、数ある“ライブシーン”の中でも、私が思う文句なしの最高峰です。

光の伝説(第18話) ゆれる想いを 受けとめて

「作品としてはベストに選ばないけど好きな話数」というコンセプトに忠実に選ぶなら、これを外すわけにはいきません。
『光の伝説』という作品自体は、望月智充さんの初監督作品です。後の望月さんの作風のプロトタイプというか、「演出の見本市を楽しむ」ような作品でした。
新体操のサクセスストーリーである原作に比して、アニメでは物語の印象がかなり薄く、完成度という意味では正直言って疑問符が付くところが多くあります。

そんな中で目を見張ったのが、この第18話です。それまで、静かに慎重に配置してきた“一人一人の想い”が、ファンレターという一つのきっかけから、ドミノ倒しのような勢いと連鎖で動き始める展開が圧巻。
たとえば、主人公・光の内面では、この回だけで驚き〜決意〜後悔〜葛藤という幾重もの緊張感と、姉の胸で泣いて言葉にすることで解き放たれた安堵感、それに全国大会という道が開けたことに暗喩される解放感が描かれています……。こうしたいくつものステップを、分断させることなく“1話”の中で一続きの感情として描き出しており、とても濃い時間になっています。
この回に限って言えば、「少女漫画としての文法」と「望月監督の作劇の文法」の噛み合わせが、最高の形で決まっていました。

ピーターパンの冒険(第1話〜第2話) 早く来て!みんなの憧れピーターパン/ネバーランドへGO!GO!GO!

厳密には「1作品につき1話だけ」というルールに反しますが、初回1時間スペシャルとして放映され、VHS版でも1時間バージョンで収録されていた(この形で初見)ということで、レアケースとして大目に見ていただけると幸いです。もちろん、2話セットで切り離すことのできない一連のストーリーになっている作品です。

語弊を恐れずに言えば、第3話でネバーランドへたどり着いて以降の本編は、善くも悪くも“普通の冒険活劇アニメ”という色が濃くなります。しかし、この初回1時間スペシャルを見終えた直後は、老若男女問わず誰もが抑えられない高揚感を覚えること間違いなしです。
“ピーターパン”という謎の存在について調べるウェンディとジョン、影をくっつけようと試行錯誤するピーターパン……といった一見些細な描写の数々から、これからネバーランドという素敵な舞台が待っているのだと、ドキドキ、ワクワクが高まっていく流れが見事。
「(これから起こるであろう)楽しいこと、夢のあること」=作中で空を飛ぶために必要なことに、視聴者自身も存分に感情移入していくことができる序章です。

エスパー魔美(第116話) 最終戦

多くの人に共感していただけるとは限りませんが、プロ野球に贔屓チームを持つファンであれば、何かしらの思うところがある作品ではないでしょうか。
引退の舞台を見届ける親子に、往年の名選手に自身の行く末を委ねようとする老人。これに野球のことをよく知らない魔美を含めて、登場人物の全ての言葉とそこに込められた感情が分かりすぎる。特に、老人の心変わりの前と後、どちらの感情にも説得力があるのが胸を打ちます。

わたしとわたし ―ふたりのロッテ―(第23話)ごめんなさい! お母さん

「あなたのことよ、ルイーゼ」。この一言が、この回の全てでしょう。同じ屋根の下で暮らしている母が子の名前を呼ぶ。そんなシーンが、息を呑むように見守るシチュエーションに仕上がっています。
前述した『光の伝説』では“1話”という尺の中で胸を去来する感情の変遷に唸りましたが、本作は、驚き〜戸惑い〜嬉しい〜ごめんなさい……が、持っていたお皿を落として目を見開く(セリフなし)、その“一瞬”に全て凝縮されています。

マーメイドメロディー ぴちぴちピッチ ピュア(第91話) 夢のその先へ

当時の反響をご覧ください。リンク先はあくまでも作品全体を通しての感想ですが、第91話(最終話)は、その全てが詰まった回。言いたいことは全て書かれています。

昨今のいわゆる“ネタアニメ”の流れを作った作品の一つですが、この最終話の衝撃と、本作が放映された2004年12月24日から26日頃にかけて感想サイト・ブログを巡回しているときに味わった謎の一体感は、以降のどんな作品にも太刀打ちできない経験でした。多少大袈裟に言えば、その数日間が、アニメファンとしての私自身の一つのピークだったような気がします。

戦争童話 ふたつの 胡桃

トリッキーなギミックや綿密なSF考証はありませんが、それでいて、確かに「タイムトラベル物」だからこそ作れる物語が紡がれています。
スッキリした話の構造の中に、「昭和20年の暮らし」「いつの時代も変わらない少女たちの交流と好奇心」そして「戦後復興の予感」までもが丁寧に盛り込まれ、非常に見応えのある作品となっています。

前半では、寺の土地が畑として使われていたり、犬の供出、子供から食べ物を奪おうとする大人たち……といった、戦時下の疲弊も極まった世相が映し出されます。その一方で、12歳の彩花と友子が仲良くなる過程がいつの時代も変わりない姿として描かれており、現代と昭和20年の“世界”の対比が、短時間で巧みに導入されています。

この土台をもとにした後半の展開の濃密さが絶品。
母ちゃんが炎の中から運び出した仕事道具は散乱したまま持って行けず、託された弟が目の前で爆風にやられるのもただ見ていることしかできなかった。(比喩ではなく、文字通り)命を賭した母ちゃんの行動も遺言も殆ど意味をなさなかった、まさに無駄死になわけですが、けれどもそんなことを考える間さえもなく、友子は生き延びるために次の行動を起こさなければならない。
そんな無情さを目の当たりにして、空襲がくると知っていたはずなのに、伝えること助けることもできなかった彩花は、自分の未熟さに泣き崩れます。

ところで放映当時、あるブログでこんな感想がありました(要約)。
“空襲のさなかに突然、昭和20年の世界から現代へ戻ることになる彩花が、愛犬ライアンを置き去りにしたことが、同じ愛犬家として理解できない。”
指摘されている飼い犬の交換について、私は、この物語を完成させるうえで欠かせないシーンだったと思います。信頼するライアンに友子を託し、ライアンと一緒に犬狩りから逃れる日々だったハナを安全な場所へ連れてくる。未熟なままほとんど何もできなかった彩花が、唯一、“何か”を昭和20年に残したという証です。

民間人が犠牲となる空襲の非情さをこれでもかという筆力で描写する一方で、暗喩的ではあるけれども、戦後の復興に明るい兆しを見せる内容配分も秀逸です。
単純にストーリーを組み立てるうえでは、彩花がタイムスリップの真相を友子に教える必然性はありません(20世紀前半の子供の遊びや暮らしに時間を割く方が、後半の感情移入がより容易になります)。しかし、ここで携帯電話というアイテムを取り出したことで、空襲で文字通り何もかもを失った友子が、それでも“必死に生き抜けば明るい未来を信じられる”ことの伏線になるのです。
本編で描かれないシーンのために「伏線」というのも変な話ですが、視聴者は東京大空襲の後に続く日本の歴史を知っているわけで、これからその時代を生きることになる友子に姿に思いを馳せるように仕向けているわけですね。12歳の友子は、父親の復員までの短く見積もっても半年から1年ほどの時間を、家族も友人も喪って自力で生きたことになります。明るい未来を確信させる存在としてライアンを友子のもとに残したことの意味は、そこにあります。

ここまで見てきたように、慰霊碑が友子を生きながらえさせる鍵になり、携帯電話で遊ぶシーンは「未来」を知る存在であることを決定づけて彩花の言葉に説得力を持たせ、ハナとライアンの脱走でライアンと友子の信頼関係を作る。……描かれてきた全ての場面が、クライマックスの“生きるか死ぬかの状況”にあって、「彩花はライアンに友子を託し、友子は彩花の言葉を信じて法倫寺へ向かう」ことに繋がっているわけです。
そして、何より印象深いラストの60年越しの再会の後は、終戦から戦後復興期の辛苦、そして高度成長の新しい時代への希望などが、隔てられた時間の分だけ語られることは想像できます。「東京大空襲から共に逃げ延びた友人」として、また「今の彩花に繋がるまでの時代を生き抜いた人生の先輩」としての友子の存在。今度は友子の方が時間を越えて彩花と出会う形で、物語の構図としても綺麗にまとまっているのではないでしょうか。

ドラえもん[シンエイ動画版第2期](2008年5月30日放映分) しずかちゃんへのプレゼントはのび太

現在は自然消滅してしまいましたが、現行シリーズの『ドラえもん』初期には、未来の静香が、(たびたび未来にやって来る)現在ののび太たちの存在を認識しており、干渉しない距離を保ちつつ優しく見守っているという設定がありました。本作はそれが生かされたエピソードの一つで、原作や旧シリーズにない独自要素のバランス感覚が優れた方向に発揮されています。

ともかく、起・承・転・結のどれを取っても「ドラえもん」らしさ満点の面白さ。ひみつ道具は大活躍で、ジャイアンとスネ夫は適度(?)に意地悪で、のび太と静香は今も未来も素敵な関係を作っている。また、不審者である未来ののび太を自分の傘に入れてあげる静香ちゃん、という他の作品ではちょっと難しいシチュエーションが自然に見られるのも、『ドラえもん』の世界観の強みです。
ラストシーン、未来の静香の「なんで昔ののび太さんたちがいたの?」というセリフが、ごくありふれた自然な言い回しとして出てきて、なんとも言えない感動があります。重ねて、ハンカチの伏線回収のやりとりの爽やかさで、さら頬が緩む。

10年を超える現行シリーズにおいて、量産されているアニメオリジナルエピソードの中でも屈指の作品です。
もしも、この話が原作短編にあれば、多くの読者にとってお気に入りエピソードになっていたことは間違いないでしょう。一方で、原作短編には、この話をこれほど感動的に演出する土壌はなかったような気もしており、その意味でも出色の出来と言えるでしょう。

けいおん!!(第23話) #23 放課後!

感慨を持ってこの場所を去る時が刻一刻と差し迫りつつも、私生活の面では、進路が決まって新生活まで束の間の自由時間でもある――。
そうした端境のひとときといえば、個人的には『3年B組金八先生』第4期の「卒業直前スペシャル」が傑作だと思ってきましたが、“らしさ”を貫いた意味では、見劣りしない作品がここにありました。細やかな機微までもを存分に描写した一編です。

軽音部の部室は3クールのシリーズで丹念に描いてきた空間なので、王道であれば、スタッフとしても感慨をもって「去り際に部室の扉を閉める」場面が入るところですが、それを描かずに談笑で終わらせたのは非常に意味深いと思います。
彼女たちの3年間の「証拠」を残す展開を盛り込み、その「最後の瞬間」を明示せずに終わらせる。これは、視聴者のため(余韻を持たせる、作品を過去形にさせない……言い方はいろいろ)という側面もあるのでしょうが、個人的にはもう少し作中の世界観に即した解釈をしてみたいところです。
「部室の扉を閉めるシーン」は、作り手の意図するとせざるとに拘わらず、「気持ちの区切り」の解釈・印象を与えてしまいます。ただ、唯たちが部室を去ることへの感傷に浸るシーンはあるけれども、これはあくまでも部室という空間への感傷であって、「気持ちの区切り」の意味は感じていないように見えます。
同じ大学へ進む4人の関係は続くし、下級生である梓にとっては部室で過ごす時間の終わりではありません。それでも、もう少し時間が経ってみれば、単に高校生活の延長線上ではいられないこと、部室を去ったあの日が「区切り」だったことに気付くのですが、それは今このシーンでスタッフが“大人の上から目線”で描いてみせることではないのだ、という……この辺のスタンスが、『けいおん!』の“らしさ”として貫かれた部分なのかな、と考えています。